社会貢献とスピリチュアルのよもやま話

スピリチュアル

※この記事は庶民のルサンチマンのように感じられる可能性がある内容を含みます。

冗談だと笑って受け流せる方のみお読みください。

 

成功した人達の共通点

 

 

こんにちは。

最近はすっかり空気が冷たくなって、風が吹くと思わず体が震えてしまいます。

だから、といっては何ですが、最近いつも以上に引きこもりモードな私です。

 

ええやん…

春夏秋冬関係なく

ロボットみたいに規則的な動きせんかってもええやないですか

人間は生き物なんだからさ…

 

 

というわけで、最近は時間に余裕があるので朝のテレビ番組もたまに見ていたりします。

 

で、たまたまつけたチャンネルの

「せやねん!」に出ていた

京都の事務・防災用品の通販会社

株式会社カスタネットさんの取材を目にしました。

 

代表の植木力(うえきちから)さん自らが

会社の今までの経緯や、事業にかける思いなどを語っていらっしゃいました。

 

今でこそ軌道に乗っているが

昔は六千万円の赤字を出したこともあったとか

カンボジアへの貢献活動で訪れた先の小学校で

通訳の誤解によって、なぜか学校を建て直す約束をしてしまったのだとか

 

まあ、聞いているだけで

「大変でしたねぇ」ってなるような話だったんですが

 

こういうのは

新しく事業を立ち上げたりした経営者さんからは

割とよく聞く系の話…でもあります。

皆さん、何かしら大きな苦労はつき物なのです。

 

で、商売を通して社会貢献を目指そうとする人たちでも

ある程度の実績を残してきた経営者たちは揃って同じようなことを口にします。

 

 

カリスマ的存在である、松下幸之助さんも言っている

「事業の利益は全て自分のものではない。

事業活動は社会貢献が先にあって、その残りの利益を社会から報酬としていただくのだ。」

というようなことです。

 

まー、でもね。

だいたいこういうこと真顔で言える人って

すでに大成功してそれなりの利益をもらっているか、

ある段階から社会のエリートコースに乗っかってて将来は

法曹界とかの士業やら政治家とコネクションが作りやすい人

日本人では圧倒的に多いから

 

「今からでもこういう生き方を目指すぞー!おー。」

みたいな我々庶民の耳と心には

話半分で良いと思います。

 

社会貢献するにはとにかくマネして新規事業起こして

海外の貧しいところに行って何かしたらいいんだ!

借金しても周りが心動かしてどうにかしてくれるんだ!

って思っちゃいがちな

ピュアな庶民にはさ、この手の美談は

インスタ映えするお店の情報をシェアするみたいな感覚で

信じたら駄目な情報だからさ。

 

人間、あまりに純粋過ぎるのも良くないと思うの。

 

 

社会貢献=循環させることならば

 

成功者の綺麗な言葉を真に受けるなと、ゴチャゴチャ言いましたが

 

要は野暮なこと言わずに

 

カネなりモノなりヒトなりの循環を

流せることが出来ればもうそれは

立派に社会貢献なのです。

 

あとは、それをどの集団で、どのくらいの規模で行うかという話。

国規模なのか、地域規模なのか、

会社規模なのか、家庭規模なのか。

 

近所の奥さんの長話に付き合って、お礼にお惣菜もらうとか

疲れて帰ってきた旦那の仕事の愚痴聞いて、休ませてあげるとか

子供なら、学校にって勉強して給食食べて友達と遊んで帰ってくるとか

 

そういう規模のことでも、もう立派に社会に貢献(物事を循環させている)してるんですが

悲しいかな。

 

この国に生まれた私たちは

「将来は社会(集団)の中でこうあるべき」という立派過ぎるお手本に従うように

刷り込まれて育ちますから

 

その循環のさせ方そのものの、本質がわからないまま、誤解させられたままに大人になった人がたくさんいます。

 

「人は多く与える側にならなければ、その人は施しを受ける側として軽んじてもいい」

そういう無言の空気が、残念ながら日本人の中にはまだ多く感じられます。

 

「満足するな!もっと向上心を持て!」

と言われはしても、その集団に競争性や正解のやり方が発生する限りは

誰かが勝つことで、誰かが敗者の役をしなくてはなりません。

 

問題が複雑で、利益や人の数が多く大きくなれなばるほど、

勝つことも、その集団に参加すること自体も難しくなっていきます。

 

 

こういうと、たいてい誰かが弱肉強食の自然界の例えを持ち出してきて

論破しようとしてくるのですが

いや、自然界はそもそもそれで循環してるし、種族の違いもあるから

生存本能によって互いに食べたり食べられたりは致し方ない部分はあるんだけど

 

しかし、それを現代人の文明社会に当てはめるってことは、

「人と人は見た目や身体の機能こそ似ているが、身分や職業によって違う種族とみなしていいから

食べても(人権を軽くしても)いい」みたいなことになっちゃって

いまだに日本は身分制度が生きている旧時代の社会という認識をすべきである…っていう

考えをあなたは持ってるってことになるけど、いいの??と思うのですが

皆さんはどう思いますか。

 

 

与えてるつもりが、いつのまにか与えられている

 

さて、ここで強引にスピリチュアルを挟みますが

 

世の中の立派な社長さんも、政治家も、

志の高い職や活動に従事する人々も

やり手のホストやホステスも

アイドルも芸人も

商売上手なあの人やこの人も

実は

「あの人達たちは周りに与えているようで、本当は周りから多くを与えられている」

ということに、気付いていますでしょうか。

 

 

川が上流から下流に流れようと思ったら、

上流と下流に川が分かれていなければなりません。

下流に流れない上流の川は、それは川とは言えないため池です。

 

 

自分が人へ何らかの貢献をしたい、と思う時

いつの間にか傲慢になってしまう危険が起きやすいのは

この辺りのことが理由です。

 

 

あなたが何かの分野で優秀であるのは、

他者と比べた時の

「たまたまの結果」

だとわかっていなければ、

あなたに何かをしてもらいたいと思う人は

少ないでしょうし

受け取ってくれたとしても、あなたが思っているほどの

「愛情」や「感謝」は返ってこないかもしれません。

 

 

 

無私の奉仕は本当に難しい

 

私たちが肉体を持って生きている間は

「今まさに、私は無私の奉仕の状態にあります!」

自己判断は出来ないと思います。

 

人間は、生存本能のエゴと、魂が合わさっています。

 

心理学でもスピリチュアルでも、何かと槍玉にあげられるエゴですが

エゴがなければ生物はあっという間にグズグズになって滅んでしまいます。

 

“生きる”という体験をするために搭載されている機能なのですから、このエゴを完全に

黙らせてしまったら「い、生きてる…の?」みたいな状態になってしまいます。

ほぼ無生物です。

 

また、客観的に誰かを無私の状態だと言っても、

その“私”が単なる複数形になった状態(他人のことを考えてる状態の私)を

“無私”と表現してしまうのか?という

哲学的な問いに突入してしまいそうな言葉でもあります。

 

だいたい、他人のエゴ(私)を否定してしまったら、

それはもう無私の心境とは言えなくなるし

かといって自分(エゴ)はありません、だなんて矛盾しているし

 

少なくとも、生きている間に完全なる無私は難しいでしょう。

 

どんなに大きな志を持っている人間だって、

その掌から零れ落ちる理想や物事・人だっているし。

 

まぁ、何が言いたいかっていうと

「社会全体や、人々のことを思って…」

とか何のひねりもなく迷いなき眼で言ってくる人間は

自覚があろうと無かろうと厄介なところがあるので

気を付けましょう、という話でした。

 

 

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