人の欠点を上手に指摘するのは難しい

スピリチュアル
正しいことがはじめからわかってれば誰も悩まない

 

どうも。

今までドヤ顔で人の弱点・欠点を指摘しては悦に浸っていたあの頃や最近の自分を

両肩掴んでガタガタ揺らして反省させたいくらい恥ずかしいと思うようになりました、私です。

 

皆様は、お釈迦様の有名な説法の一つである

子を失くした母への教え(キサーゴータミー)をご存知でしょうか。

 

このお話は、生まれて間もなく死んでしまった子供が何とか生き返る方法はないかと

お釈迦様に尋ねた母親の話なのですが

 

そんな母親に対し、お釈迦様は

そんな方法、あるわけない

人は皆いつかは死ぬんだから。」

とは直接言い放ちません。

 

その代わりに、

「今まで一度も亡くなった方のいないご家庭から、ケシの実をもらってきなさい。」

と母親に伝えます。

 

第三者的にこの話を聞いている私たちには、

「今まで家族が死んだことのないまま続いている家庭なんてない」

ことは冷静に受け止められるのですが

深い悲しみと絶望に囚われている母親には、

そんな事実をそのまま伝えるのはかえって現実を受け入れ難くさせてしまいます。

 

いくら正しい事実や考えであっても、そこに人の気持ちが納得できる過程や理由を

感じられなければ、人の状況や行動は変えられない、ということです。

 

実は、人はみんなそれぞれ、他人が思うほど愚かではありません。

 

このお釈迦様の話で出てくる母親だって、

心の奥のどこかで

「いくら泣いて願っても、自分の子が生き返ることはないと受け入れなければならない」

とお釈迦様に教えられる前からわかっているのだと思います。

 

正しいことがわかっていても、自分の悩みを上手に手放すことが出来ない

そんな人と話をしたり関わる時に、一番頼りになるのは優しさではないでしょうか。

 

そして、智慧となるほどまでの優しさや知識は、一朝一夕では身につかないことを

改めて痛感した、最近の私でした。

 

人からの言葉や行動に傷ついたり、傷つけたりしながら

人は成長していく機会が誰にも平等にあるこの世は、

生きている人間は誰もそんなに大差ない存在なんだな~、とようやく身を持ってわかった気もします。

 

 

教訓が腑に落ちるまで

 

最近はスピリチュアルな教訓が

ネットや書店の本で誰でも知ることが出来るようになった&広まったので

知識としてだけなら

「ああ、悟るとか、ワンネスとかってだいたいこういう意味なのね。」

と理解することはできます。

 

しかし、そうやって仕入れたスピリチュアルな知識が実際にすぐ活用できるか?というのはまた別問題

結局のところ、どんなに立派な教えや知識であっても、自分で体感してまさに腑に落とすしか方法がないのです。

 

では、どうやって腑に落とすところまで持っていけばいいかというと、

もうそれは本当にそのやり方は百人いれば百通りで

「教祖様やスピリーダーの教えの通りに生きていればわかる!悟れる!」

ものでもないんですよね。

 

自分以外の他人が提供してくれるものは、自分自身を知るために必要なパズルのピースの一つみたいなものです。

 

例えば、私の場合だと

「どこまで完璧を追求しても、結局自分は自分でしかない。

でも、それと同時に、自分が全体の一部であることに気付く。

だから、ワンネス。(ワンネスとは、自分以外を含む全てだから)」

という答えは、私が自分でそう思っているもので、私以外の人にとってはまた違う解釈があるかもしれません。

 

あなたが完璧でない代わりに、相手も完璧ではない

 

完璧というのは、その言葉の概念自体がもうすでに全体から切り出した一部になってしまっていることに気付いたのは、本当に最近のことだったのですが

 

それに気付くまでに、私はありとあらゆる

「自分よりも知性や要領が良さそうで、何かと秀でているように見える人や本」に

自分の疑問をぶつけまくってきました。

 

察しのいい方はお気づきかと思いますが、こんな相手を試すような態度をとれば

だいたい嫌われるのが普通なんですが

私は日本人の平均からすると多分アホの部類なので、そんな自分は平均値上の人には何でもかんでも聞いていい(そして答えは必ず返ってくる)ものだと思っていました。

 

でも、頭の良さそうな人が自分の答えられない質問をされると、質問をした相手に怒りを覚える場合もある、ということが全然理解できなかったんです。

頭のいい人にも、コンプレックスやプライドが隠されていることを、アホの立場からは想像できなかったんです。

そして、相手を怒らせた理由で一番肝心なところだったのは

「自分が見つけられない答え」をムリヤリ他人に答えさせようとしていたところだったのでした。

 

他人は自分の神様ではないので、こんなふうにプレッシャーかけてくる相手とはそりゃあんまり関わりたくないよな。

ということに気付くまで、私はとても長いが時間かかりました。

恥ずかしいわー。

 

と、同時に、長年の完璧主義からも解放されつつあります。

どんな人間も不完全であると知ることで、他人と自分両方に対して以前よりも許容範囲が広くなったというわけです。

 

 

相手の良さを見つけて付き合うことの大切さ

 

人はプラマイゼロな感じの存在なので、マイナスの部分ばかり注目すると

雪だるま式にマイナスな関係、状況、行動に陥りやすくなります。

 

恋愛中のカップルを例に出すと

相手の浮気を疑い続けていたらそれが原因でケンカが増えて、

愛想が尽きて実際に浮気されちゃって別れちゃった

みたいなパターンですね。

 

 

相手の欠点を完璧に取り去ることなんて不可能です。

だったら、良い面をなるべく多く見つけて、お互いに良い気分で過ごしていけたほうが

人間関係は幸せだと思えるのではないでしょうか。

 

 

 

カップル例え話の余談

 

喧嘩中のカップル

 

よく、カップルの片方が相手に

「お前ってブサイク」だの

「本当にダメな奴だな」だのしつこく言ってきて

「一体、付き合っている相手に対して何の嫌がらせだ?」みたいなことをしていることがあると思うんですが

アレはね、、、実は

全部、言っている側が自分で気にしていることです。

 

これは他人から見てどうとかの事実はあんまり関係ありません

口に出す本人が「こうなるのは嫌だ、こう思われるのは嫌だ、だから努力しなくちゃ、頑張らなくちゃ…」と毎日心の中で唱えていることだからです。

 

相手の魅力や評価を下げることで、自分の内面の問題に目を向けなくてもいい

理由にしているんですね。

本当に向上心のある人は、いちいち人に「ただただ不愉快な軽口」を叩いて時間を無駄にしている暇はないかと思います。

(言われてムカッと来る側も、自分でそういうところがあるかもしれないと心当たりがあるから傷つくのです。でも、貶してきた相手の為に変化や行動を起こしてやろうとは思えないし、本当なんなんですかねこの不毛なやりとり。)

 

また、こういうことをする理由として

「自分たちって、こんな失礼なことを相手に言っても許される間柄だよね?」

「親にも友達にも、自分のマイナスな面は見せられないけど、恋人(夫婦)だからOKだよね?」

という、いわゆる愛情の試し行為でもあります。

 

つまり、相手を貶しているような言葉でも、実際は

「お前(あなた)は駄目な奴だなー」

「俺(私)は本当は駄目な奴なんだけど、あなたもだよね?そうだよね?だからこの先も一緒にいてくれるよね?仲良くしてくれるよね?ね?」

という聞こえてこない心の声が存在しています。

 

…まあ、こう思って納得できたところで、相手への愛おしさが増すか、疲れが増すかは

自分次第になってくるんですけれど…。

 

 

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