エーテル体の考察と日常の事象に関する雑記①

スピリチュアル

この記事は、個人の所感の備忘録的なものに近く、
読んで何となく理解できる人や共感できる人に向けた記事です。


特に文体が偉そうになってますが、心の中の独り言口調なんだと思って気にしないでください。心の声は中二病仕様。


一般化した具体的な有用性や活用については述べていません。
暇なときの暇つぶしにでもお読みください。

エーテル体に刻まれる傷の話

私たちが普段、個人の存在として認識しているもののその大元は、一体どこだろうか。

ある人は、肉体的特徴だというかもしれない。
ある人は、その人独自の言動や社会的な役割と思うかもしれない。

私の場合だと、個人の識別は「傷」を見て判別している。
それは身体的な傷のことではなく、日本語で表すところの「心理的な傷」に近い。

より近い感覚では「エーテル体に付いた傷」と言いたいところだが、私の思っているエーテル体という言葉と、神秘学などで教えられているエーテル体が同じであるかどうかは自信はない。
でも、便宜上エーテル体という表現を使わせてもらおうと思う。

エーテル体に刻まれた傷は、過去の感情や肉体的なショックと関連していて、それが今まさに体験していることに勝手につながって意識が過去のことに結びつけられる。

エーテル体の傷は、レコード盤に刻まれた溝のようなものだ。
悲しい記憶の傷も、楽しく喜ばしい記憶の傷も、再生されれば独自の音楽となり、
それが人の個性になる。

子供の頃は、毎日ほとんどと言ってもいいくらいエーテル体に傷が出来ていく。
まっさらな状態から生まれてきて、この世界で生き延びる過程で体験という個性を形成する傷を負っていく。

傷には、良いものも悪いものも含まれる。

音楽アルバムの曲が全てが同じメロディーラインなら、聞いている人はすぐに飽きてしまうだろう。

今現在、過去に傷付いた経験のおかげで社会的には成功している人たちがほとんどで、傷付きというのは未来への原動力となっている。

人生は鮮烈で魅力的なものであればあるほど、悲喜こもごものドラマが多少は必要なのだ。

しかし、人の人生はそこまでドラマのように単純ではない為、そのような人達にもある日限界を感じる出来事が起こる。

もっと今よりも魂の本質に触れる生き方(ドラマではない)に否応なく惹かれる時が、タイミングの違いはあれど、ほぼすべての人達にやってくる。

そして、自分の傷(価値観)を手放す必要性に気付くのだが、傷は深い恐れや失望の感情と結びついているので、そう簡単には放れてくれない。

エーテル体の傷の癒しと、それを妨げるものとしての知識の誤った使い方

エーテル体に付いた傷は、自分が死にかけた時のような恐怖を覚えている。
母親に見捨てられそうになっている子供のような、根源的な恐怖と同じ種類のものだ。

このような恐怖を感じている時、知識は状況を識別するための道具にしか過ぎない。間違って使えば、傷を癒すどころかさらなる混乱と欺きをエーテル体に与えることになる。
心の問題は理性で裁くのではなく、受容が必要だと言われるのはこのためだ。

実体験を伴わない単なる知識を重要視することも、エーテル体に刻まれる価値観という傷の個性になってしまう。
忍耐への苦痛・他者からの批難を逃れるための理由として知識を使うからだ。

だいたいの人達の反応が、知識が役に立たなければそれをこき下ろし、有用であれば習得した自分に誇りを感じるといった具合だ。知識は自己中心的に用いられるかどうかがまず重要視される。

私達は、よくわかっていないことまで分かっているフリをしながら、現実を生きている。覚えていることが多ければ多いほど賢いと現代の社会の主な価値観では言われているが、単に知っていることと実際の真実との間には深い樹海のような隔たりがある。

知識が生まれた場所は樹海を抜けた向こうだが、樹海に入って行って確かめようとする人達はしばしば“ 変人 ”や“暇人”、あるいは“愚か者”と嗤われる。
このような人達が世間的に良く扱われるようになるには、他人の自己中心に何かしら貢献しなければならない。

しかし、自分がこの樹海に入ろうとするなら、用心しておかなければならないと思う。
なぜなら、知識と真実の間の樹海で彷徨ううちに、私たちはいつの間にか悪魔とうっかり契約してしまう。
「この先の見えない探究に成功という光が現れた暁に、私に何か褒美をくださいますように」といったような契約だ。

そして 慢心や虚栄心といった昏い影がいつしか大きくなり、成功の時を迎えた後辺りから、契約を果たし魂をもらい受けに来た悪魔のようにやってくる。

私たちは、知識を扱う時にはいつでもこの悪魔に気を付けているほうが良いと思う。

また、知識は、エーテル体に実際の経験もなくあたかも真実であるかのように、余計な傷を残していく侵略者でもある。
アダムとイヴが知恵の実を食べたことによって楽園を追放された時のような、その知識が真実かどうかも分からないうちに混乱と恐怖を招くという意味では、知識は罪と罰を起こさせるものだ。

今回の所感を得る過程で読んだ参考書籍

  • 和尚(1999)『隠された神秘』市民出版社
  • 和尚 OSHO(2002)『秘教の心理学』LAF

コメント