社会的マイノリティの人間関係の心理的距離感の難しさなどについて

心理学

※この記事の内容のほとんどは、個人的な実体験や記憶に基づいています。
共感できる・自分のこととして感じられる方への何らかの情報源となればと思い記事の形でシェアしています。
よって書かれていることは医学的・科学的根拠の無いものですので、読んだ後のことについては自己責任でお願いいたします。

また、きちんと文章構成出来ているか確認が甘い部分(話の前後の繋がりなど)があるかと思いますが、そこはご容赦ください(^^;)

慢性的な心理的抑圧感による、人間関係のハンディ

鬱や精神的な病にかかりやすいのは、自己肯定感が低くなりがちな社会的に弱い立場・特に集団の中におけるマイノリティな人に多いです。

このような状態にある人は心の抵抗力が落ちているので、外側からかけられるストレスを跳ね返す力が弱く、そのままにしておくと発散できなかったストレスがどんどん内側に食い込んでいきます。

この内側に食い込んでいるストレスを取り除くには、丁寧に玉ねぎの皮を剝くように慎重に焦らず内側にアプローチしていく必要があります。
大抵の場合、鬱や精神病になるまでに相当な抑圧を重ねてきているからです。

しかし、鬱や精神病の人、とりわけ社会的マイノリティに属しているという意識が強い人にとっては、他者の力を借りて行うカウンセリングの際に、カウンセラーとなる相手と長期的な協力関係・信頼関係を築けずに途中で人間関係を断ってしまうことも少なくありません。

継続的な協力関係を気付くための段階が、心が健康な状態の人達と違って条件が複雑で見え難いからです。始めから崩れかけのジェンガのイメージに近いでしょうか。

となれば、人間関係のプロであるカウンセラー相手以前に、周囲の身近な人間関係においても「いつも何かが上手く行かない」と感じている社会的マイノリティの人は多いものと思われます。

なぜ、社会的マイノリティの人がそのような傾向になりやすいかと言うと、「社会的な他者との健全な心の距離感」を自分なりに学習できる機会に恵まれにくいからです。
特に幼少期からそうであると、自分は周りとは違う特別な存在なんだと思う機会も時間も多くなり、ますます「マジョリティの普通の感覚」が分からなくなっていきます。

多くのマイノリティは自分の感覚としては確かに関じている違和感と、同時にそれにあまり深く取り合ってはいけない・声をあげてはいけないという集団からの無言の圧力のようなものを感じて混乱します。
集団に受け入れられたいという思いと一緒に集団に対する不信感も抱えることになるので、この心理的な矛盾を解決するために、いわゆる引きこもりのような状態が発生します。


また、社会的マジョリティには、社会的マイノリティには分かりにくい「心理的な距離感を保つための共通のルール」があるのですが、あらゆる面で社会的マジョリティと同じ水準(当たり前の感覚や共通の体験)に達していない経験をすることの多いマイノリティにとっては、マジョリティにとっての普通の感覚が特別に思えることが多いものです。

この感覚の違いを良い方に解釈するならば「パラリンピック」や「24時間TV」みたいな「感動を呼ぶコンテンツ」のように他者に受け入れられるのでしょうが、いつでもそのようなこと(他人事)に関心を向けていられるほど人々は暇ではありません。

もし、本当にマジョリティがマイノリティに本当の意味で共感できているなら、上記のような消費される感動コンテンツとしては成立しません。

つまり、マイノリティとマジョリティの差とは、マイノリティにとっては「たまに目にするけど、基本的には自分には直接関係のない存在・出来事のこと」なのです。

マイノリティとマジョリティの間にある心理的な溝

社会的マイノリティの側にとっては、「自分は社会(組織や集団)に受け入れられたい」という強い欲求があることが多いですから、そこに気付かずに「どうしてわかってくれないの」と必死に自分を相手に押し付けてしまう、という悪循環に陥りやすくなります。

この悪循環の中には「私には理解できないし体験することの出来ないものに対して、諦めや我慢を強いられる怒り」や「それらの怒りを周りに漏らさないように我慢することの苦痛や孤独感」があります。

しかし、前述のとおり、ほとんどのマジョリティはマイノリティの感覚にいちいち付き合っていられるほど余裕があるわけではありません。


ところが、マイノリティにとっての人間関係は「理解されたい」「この孤独から救われたい」という人間関係における心理的な飢餓感から、「垂らした釣り糸に魚が食いつくのを待っている」ような、狭くて濃くて執着の強い関係になりがちです。
その結果、無意識に発せられている必死さを感じ取った相手から気味悪がられて一方的に関係を絶たれたり、それとなく避けられたり、または集団の中の異物として認識されて追い出されたりします。(マジョリティ側にも、特別に目立つ存在を排除するというネガティヴな防衛心理があります)

たまに、「自分は○○だから嫌われている、周囲から不当な扱いをいつも受けている」と思い込んでいて、他者から攻撃される前に自分から攻撃してやろうという態度の人達がいますが、それはそもそも「○○だから」という条件があるせいではなく、自分自身がその○○という条件に意識が縛られ過ぎていて、良い人間関係を築く上での条件について、他の可能性や接点に目を向けないせいで上手く行っていないという場合が非常に多いように感じます。

これは他者から指摘してもらうことは難しい(何となく感じていても、それを言語化出来ない)でしょうし、自分でも分かっていない深層心理を他者に指摘されたところで、指摘した相手を逆恨みするのがオチになります。

なぜ社会的マイノリティがそこまで自分の主張が(ほとんどの場合無意識に)強くなってしまうのかと言うと、おそらく本能的な危機感から発作的にそのような言動に出てしまうことがほとんどなのではないだろうかと私は考えています。
人間にとって集団から孤立するという状況は、科学的根拠のある本能的な恐怖を引き起こす理由の一つだからです。

自分の正当性を他人に訴えかける時に言葉や理屈が使えない場合は、感情を動かすしかありません。それが能動的になると他者への攻撃的な態度として表れたりするのですが、その逆に何に対しても関わることを避け消極的になることで受動的に攻撃するという手段もあります。
しかし、どちらの方法を取ったとしてもそれは根本的な解決にはなりません。

人間関係のハンディや不健全な心理的距離をポジティヴな状態にしていくためには

残念ながら、マイノリティがマジョリティの側に理解を求めるのはその訴えが受け入れらるまでに長い時間と労力がかかります。
なぜなら、進んで他人のことを客観的に理解しようと思えるほど多くの人達の精神性は進化しておらず、またその為の余裕も持てるような社会の状態ではないからです。

そして、マイノリティが人間関係において困難を抱えてしまう理由を全てマジョリティ側の能力や影響のせいにするのも正しい判断とは言えません。
現状の変化の必要性を求めているのは、マイノリティの側だからです。

社会的マイノリティはマジョリティ社会の中にある価値観について完全に適応できないとしても、知識として理解し客観的な視点をもって互いの人間関係を丁度良い距離に保つことを学ぶ必要性があるかもしれません。
なぜなら、個人的な必要性を感じない限りは、マジョリティの方からマイノリティに関心を示すことはないからです。

そしてまた同時に、個人の深い特異な経験や感情を、ほとんどの他人が理解したり受け入れたりすることは出来ないと知り、予め過剰な期待を抱かないことも大切です。
そのことが結果的に、他人にも自分にも良い関係性を築くことに繋がります。

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